ぶらしっち~初夏の農家ランチ付きガイドウォーク~
今年度最初の『農家ランチ付きガイドウォーク』は晴天に恵まれました!
今日のテーマは「宮島沼の原風景と歴史をたどる (パート1)」。

古い地図や航空写真をもとに、150年前まで地域に広がっていた
原自然をイメージするところからスタートしました。
石狩川流域には広大な湿原(泥炭地)が広がっていましたが、
川に近いほうから湿地林、ヨシの湿原、スゲも入り混じる湿原、ミズゴケの湿原と
様相が変わっていったと考えられます。
宮島沼周辺では、
「石狩川沿岸一部を除いて樹林湿地が多く、南東部は深い泥炭地であった」と記録があり、
宮島沼の北側は「沼が泥炭で埋まり湿地になり、高層湿原(ミズゴケの湿原)へ移行状態」
南側は「一帯がキタヨシの大草原」、東側は「少し高くなった大地の疎林にカタクリが群生」
していたような景観でした。
そんなことを紹介しつつ、ガイドウォークがスタート。

ミズゴケ湿原再生区でちょうどツルコケモモのお花が咲いていました。
原野に咲いていたカキツバタ、自然堤防の湿地林に咲いていたチョウジソウ。

そんな湿原の生き証人を探しながら歩きます。
宮島沼の名の由来となった宮島佐次郎さんは、明治23年入植。
宮島沼南端から樺戸道路にかけた樹林湿地を切り開き、50間(90m)ごとに排水溝を掘って
原野を開拓していきました。
明治33年ごろには足踏み式水車を自作し、水田を試作したと記録されています。
苗は樺戸集治監からもらい受け、田んぼの見回りはクマよけの缶を叩きながらだったそうです。
その後、昭和の初めにも宮島沼から水をあげる揚水機場がありました。

どのような経緯で建てられ、取り壊されたのかは調べきれなかったのですが、
石狩川の揚水機場が河川改修に伴う水位低下によって取水能力が低下し、当時は用水不足にあったとの記録があるので、それを補うためのものであったのかもしれません。
カタクリが群生していただろうかつての湖岸をたどり、

沼の北側のミズゴケが生えていたエリアまで歩きます。
その先にある農村公園はかつて富樫小学校の跡地です。

前身となったのは明治32年に宮島佐次郎さんの小屋で始まった寺小屋式教育で、明治42年には尋常科6年制度の富樫教育所となり、石狩川の岸辺近くに位置していました。
昭和35年には石狩川の築堤工事に伴って移転を強いられ、その際に国有林の払い下げを受けて現在の跡地に引っ越してきました。当時は動力が馬からトラクターに移行している時代。校舎を3か所に分断し、3月の堅雪の上を人、馬、ブルドーザーで引っ張ってきたそうです。
ちなみに富樫小学校が移転して9年目に、地域の4つの小学校が統合される形で西美唄小学校が開校し、富樫小学校は開校70周年を節目に閉校することになります。その跡地は開拓百周年事業として農村公園に生まれ変わり、整備後は地域総出で球技大会が行われ大いに盛り上がったそうです。
そんなこんなで約2時間、「宮島沼の原風景と歴史をたどる (パート1)」が終了しました。
次回はかつて地域の子どもたちの遊び場であった石狩川の砂浜と、美しい景観で人々を魅了したと言われる富樫甚社の池の痕跡を探します!
ガイドウォークのあとはこめ粉食Loveのみなさんによる農家ランチ!

手作りみそのお味噌汁、手作り豆腐など、こだわりとおもてなしの品々をお腹いっぱいいただきました~。
デザートは米粉のシフォンケーキ。

ごちそうさまでした!
次回は8月20日(日)!
お早目の参加申し込みをお待ちしております~。
今日のテーマは「宮島沼の原風景と歴史をたどる (パート1)」。

古い地図や航空写真をもとに、150年前まで地域に広がっていた
原自然をイメージするところからスタートしました。
石狩川流域には広大な湿原(泥炭地)が広がっていましたが、
川に近いほうから湿地林、ヨシの湿原、スゲも入り混じる湿原、ミズゴケの湿原と
様相が変わっていったと考えられます。
宮島沼周辺では、
「石狩川沿岸一部を除いて樹林湿地が多く、南東部は深い泥炭地であった」と記録があり、
宮島沼の北側は「沼が泥炭で埋まり湿地になり、高層湿原(ミズゴケの湿原)へ移行状態」
南側は「一帯がキタヨシの大草原」、東側は「少し高くなった大地の疎林にカタクリが群生」
していたような景観でした。
そんなことを紹介しつつ、ガイドウォークがスタート。

ミズゴケ湿原再生区でちょうどツルコケモモのお花が咲いていました。
原野に咲いていたカキツバタ、自然堤防の湿地林に咲いていたチョウジソウ。

そんな湿原の生き証人を探しながら歩きます。
宮島沼の名の由来となった宮島佐次郎さんは、明治23年入植。
宮島沼南端から樺戸道路にかけた樹林湿地を切り開き、50間(90m)ごとに排水溝を掘って
原野を開拓していきました。
明治33年ごろには足踏み式水車を自作し、水田を試作したと記録されています。
苗は樺戸集治監からもらい受け、田んぼの見回りはクマよけの缶を叩きながらだったそうです。
その後、昭和の初めにも宮島沼から水をあげる揚水機場がありました。

どのような経緯で建てられ、取り壊されたのかは調べきれなかったのですが、
石狩川の揚水機場が河川改修に伴う水位低下によって取水能力が低下し、当時は用水不足にあったとの記録があるので、それを補うためのものであったのかもしれません。
カタクリが群生していただろうかつての湖岸をたどり、

沼の北側のミズゴケが生えていたエリアまで歩きます。
その先にある農村公園はかつて富樫小学校の跡地です。

前身となったのは明治32年に宮島佐次郎さんの小屋で始まった寺小屋式教育で、明治42年には尋常科6年制度の富樫教育所となり、石狩川の岸辺近くに位置していました。
昭和35年には石狩川の築堤工事に伴って移転を強いられ、その際に国有林の払い下げを受けて現在の跡地に引っ越してきました。当時は動力が馬からトラクターに移行している時代。校舎を3か所に分断し、3月の堅雪の上を人、馬、ブルドーザーで引っ張ってきたそうです。
ちなみに富樫小学校が移転して9年目に、地域の4つの小学校が統合される形で西美唄小学校が開校し、富樫小学校は開校70周年を節目に閉校することになります。その跡地は開拓百周年事業として農村公園に生まれ変わり、整備後は地域総出で球技大会が行われ大いに盛り上がったそうです。
そんなこんなで約2時間、「宮島沼の原風景と歴史をたどる (パート1)」が終了しました。
次回はかつて地域の子どもたちの遊び場であった石狩川の砂浜と、美しい景観で人々を魅了したと言われる富樫甚社の池の痕跡を探します!
ガイドウォークのあとはこめ粉食Loveのみなさんによる農家ランチ!

手作りみそのお味噌汁、手作り豆腐など、こだわりとおもてなしの品々をお腹いっぱいいただきました~。
デザートは米粉のシフォンケーキ。

ごちそうさまでした!
次回は8月20日(日)!
お早目の参加申し込みをお待ちしております~。
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