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うしやまかつみ(事務局)

Author:うしやまかつみ(事務局)
宮島沼プロジェクトチームの事務局をしています。普段は宮島沼水鳥・湿地センターの中でパソコンと格闘しているか、外で草刈り(夏)か除雪(冬)かマガンを数えて(春と秋)います。地域のみなさまに支えられて宮島沼歴は早15年になりました!

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ぶらしっち~秋の農家ランチ付きガイドウォーク(10/15)~

季節やテーマで吟味した、その日オリジナルのコースをスタッフがご案内。気持ちよく歩いたあとは、こめ粉食Love(地域の農家のお母さん達)が作る地場産・旬野菜たっぷりのランチをいただく人気企画、『ぶらしっち~秋の農家ランチ付きガイドウォーク』が開催されました。

今回のガイドウォークのテーマは…
宮島沼の原風景と歴史をたどるガイドウォーク Part3、『再発見された馬頭観音?馬と地域のかかわりを探す!』でした。

石狩湿原の開拓は、明治から昭和初期にかけての人馬を主体として開拓と、戦後の機械化された大規模な開拓に大きくわけられます。明治からの開拓は主に河川沿いの肥沃な土地(樹林湿地やヨシ群落)から徐々に進められましたが、戦後の開拓では貧栄養で超軟弱地盤である高位泥炭地(ミズゴケやスゲの湿原)を含めた大改造が行われ、石狩湿原は瞬く間に消滅することになります。

明治の開拓当初は人力主体の開墾でしたが、ある程度田畑が整備された大正期に入ると、馬は農作業に欠かせない家畜として一家に一頭飼育されるようになります。
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朝から晩まで、時には馬のお腹まで埋まる湿田でプラウを曳き、「馬は大変だった」という声を聞きます。
原野の名残である底無しの谷地まなこに落ちて死ぬ馬もあったそうです。農家も朝晩の草刈りなど苦労はあったそうですが、馬は家族同様に扱われ、大切にされていました。馬が病気やケガで死んだ際には手厚く供養され、人がなくなったときと同様に香典が渡され、そのお返しに馬肉が配られました。

こうした時代に、馬を供養し、農作業の安全を祈願する馬頭観音が各地に祀られました。
今回のガイドウォークは、地域で唯一の、しかも偶然に再発見された『馬頭さん』を見に行きました。

その途中…





田んぼでマガンの痕跡を探したり…
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開拓に先立ってつくられた樺戸道路の秘密を探ったりしながら、
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『馬頭さん』のある小山さんのお宅へ。
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先代のおじいさんがこの地に転居した際に、草刈りをしていて偶然地面に埋もれかかっていた観音像を発見し、台座を作り安置したそうです。その後、ご自宅の新築に併せてお堂も新築。中には馬蹄や小さな像も安置されています。

1983年には、夏のガイドウォークでご案内したお地蔵さんと一緒に合祀の打診があったそうですが、こうしているのも何かのご縁と、引き続き小山家で祭司することになり、今でも初午・節分・正月の際に祭司されているそうです。

石狩川流域では馬頭観音の碑が多くみられる中、とても立派な観音像です。
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参加者でお参りさせていただき、先に進みました。
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次に向かったのは、戦後の開拓によって消滅した親子沼です。
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かつては広さ3万坪といわれ、水は茶褐色、水草が繁茂し、魚影が濃く、釣りをよくしていたとのこと。
周囲は大富原野と呼ばれ、開発が遅れていた深い泥炭地でした。戦後には開拓団が入植しますが、沼が急速に変貌したのは昭和58年から始まった基盤整備工事の後で、沼の排水が強まり、まずは小沼が消滅します。平成4年には沼を迂回するようにコンクリート張りの深い排水路が築かれ、親沼の水面も消失しました。平成6年には沼を残土で埋め立てる計画があったそうですが、それは何とか免れ、今は広大なヨシ原が広がっています。

さらに歩を進め、かつて馬を埋葬したあたりを遠くから眺めました。
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歩いた後のお楽しみ!今回もボリューム満点です!
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次回のガイドウォーク、開催日はまだ未定ですが、2月か3月の堅雪の時期にカンジキウォークをしたいと思います!

※今回の報告用の写真はMさんにご提供いただきました。ありがとうございました!

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